« 神田・神保町古書街 | メイン | 神田・神保町古書街 »

「死ぬ瞬間」を読む

・ 本書は、現代における「死」ならびに末期患者に対する病院の対応に対して鋭い疑問を投げかけると 同時に、あるべき方向を提案し、世界的に大きなインパクトを与えた名著である。
・ 本書のサブ・タイトルは「死にゆく人々との対話」、1969年に発刊された原書を1971年に翻訳出版 したものである。
 この本が書かれた直接のきっかけは、1965年秋、シカゴ神学校の生徒四人が“人生における危機”
の論文執筆に当たって、“死を人間が直面しなければならない最大の危機”として捉え、著者に協力を求めてきたことにある。
 それをシカゴ大学病院の各科統合セミナーとして定着させ、週に一回インタビューを実施、その後参加者で討議を行った二年間の経験をもとにまとめられたのが本書である。
 「死ぬ瞬間」E・キューブラー・ロス、読売新聞社、1971

・ 著者の執筆動機は、数十年前には自分の家で平和と尊厳のうちに死ぬことを許された日々が、医学の急激な進歩により、幼年・青年・中年層に高い死亡率をもたらしていた多くの疾病が征服され、長寿化・老齢化の進行とともに老齢と関係した悪性・慢性の病気に悩む人が増え,同時に死の恐怖を持つ人と情動問題に悩む人がが多くなるという社会変化が生じ、病院で死ぬことが普通になってきたが,病院では死にゆく人に焦点を当てた対応ができていないため、平和と尊厳のうちに死ねない人が多いという問題意識にある。
・ なぜ病院は“死にゆく人”に焦点をあてた対応ができないのか?:
 「病院は歴史的にいうと、その発展の初期には、貧しく窮乏した人々、あるいは死にかけた人びとなための施設だった時代があった。しかし医学や保健関連の科学技術は20世紀に劇的な発展進歩をとげ一変した。死んでいく人たちのための施設から、もっぱら傷病の治癒・治療・修復・回復を引き受ける施設になったのである。」
 「病院は、病を治すという業務を委託された施設であり、臨死患者たちはそうした病院のそうした役割を脅かすものである。病院で働く専門家たちはそれぞれ明確に遂行すべき役割と業務を課せられているが、それらは死に瀕した患者の状況とは相容れないものである。患者の死は専門家たちの役割を脅かし、彼らの間に自分は能力不足だという感情を引き起こす。----専門家たちの任務規定には、人間として臨死患者たちに対応すべしという項目はない。」
 ( 以上「続 死ぬ瞬間」より )
・ 平和で尊厳ある死の過程とは?:
 致命疾患の宣告ー1)否認ー2)怒りー3)取り引きー4)抑鬱ー5)受容ーデクセスシス(解脱)
 「これらの段階は入れ代わることはできず、必ず隣り合い、ときには重なり合っている。こうして多くの患者は、なんら外部の助けを受けることなく最終的受容に達していった。だがそうでない人々は、これらの各段階を通過して平安と威厳のうちに死んでいくためには、他からの助力が必要であった。」
 「病気の段階がどうであれ、---- 患者は最後の瞬間までなんらかのかたちで希望を持ち続けていた。チャンスをほのめかされることなく、希望を与えられることなしに致命疾患を告げられた患者は、最悪の反応を示し、そうした残酷な告げ方をした人とは決して和解することはなかった。わたしたちの患者に関するかぎり、どの人もなんらかの希望を持っていた。わたしたちは、これを忘れるべきではない!」
・ 末期患者の特別なニーズ:
 「もっとも重要なことは、われわれから末期患者に近づいていき、かれの悩みごとのいく分かでも喜んで分けもつ用意があるということを知らせることである。
 死にかかっている患者に協力するには、ある程度の成熟がいり、その成熟は経験からしか得られない。末期患者のそばに静かに不安感なしにすわれるようになるには、まず死と死ぬことに対する、われわれ自身の態度をくわしく反省しなければならない。
 患者が心のドアを開けるのは、恐怖とか不安とかをもたずにコミュニケートできる人間と会う場合である。--- たとえばガンとか死とかいうことが語られても決して逃げたりしないことを彼自身の言葉と行動によって示そうとする。患者はこのきっかけで心のドアを開けるだろう。」
 「患者の生のなかで、苦痛がなくなるちきがある。そのとき心は夢のない状態にはいり、食物欲求は最小となり、周囲環境の知覚はほとんど消えかかり、暗黒となる。 -----
 このときはもう言葉ではおそすぎる。医学が干渉するするにはおそすぎる(医学が干渉すれば、善意ではあっても残酷すぎる)。だが死にゆく人から最終的に離れ去るには早すぎる時間でもある。」 
 「この時間は患者にとって、まさに沈黙の精神療法が行われるべき時間であり、すぐそばに近親がいることが必要である。」
 「言葉を超えた沈黙のうちに、死にゆく患者といっしょにすわる力と愛をもった人たちは、この瞬間が恐ろしくも痛ましくもなく、肉体の機能が平和のうちに終わる瞬間であることを知るであろう。」
・ シカゴ大学病院で起こったこと:
 最初に、“人生における最大の危機としての死”について学ぶために、末期患者にインタビューすることに決めて、著者が許可を求めたところ、各科・各病棟の医師たちはきわめて自己防衛的になり、みな反対した。だが最終的にインタビューに応じるという患者があらわれて実施。回を重ね、シカゴ大学統合セミナーとして、医学校と神学校の大切な教育科目となるとともに、訪問医師・看護婦・看護婦助手・付添い人・ソーシャル・ワーカー・吸入療法専門家・作業療法士など約50名が出席・定着した。
 末期患者とのコミュニケーションが多数の参加者に大きなインパクトと半永久的な影響を及ぼし、末期患者への対応に大きな変化を与えることになった。
* 独断と偏見
 ・ 本書は、1971年に出版されたが、提起された、どう「死」をとらえ、どう病院で末期患者に対応していくかという問題は、現在の日本でますますその重要性を増している。
 ・ 「死」について:
 「冷静に死に直面せず、死から逃避するという傾向については多くの理由があると思う。もっとも重要な事実のひとつは、現代では、死ぬことは多くの点で昔よりはずっと気味悪いものになったということである。いいかえれば、死は、もっと孤独な、機械的な、非人間的な過程となった。」
 こうした指摘は、アメリカ以上に、宗教ならびに哲学(死について答えられるのはこの二つしかない)が稀薄な日本では、より深刻だし、今後さらにその度合いを増すのだろう。
 ・ 「病院で死ぬ」ということ:
「このますます機械化されてゆく、ますます非人格的となってゆくアプローチは、結局死にゆく人を扱うわれわれの自我防衛機制(不安を回避する心理的機制)の発動ではないだろうか?
 このアプローチは、末期患者もしくは重篤患者がわれわれの内部に喚起する不安を取り除く、あるいは抑圧するための、われわれの流儀の手段なのではあるまいか?」
 現在の日本では、こうした状況が一層進み,“スパゲッティ状態”と形容される過剰週末延命医療の問題が深刻になっている。
 その一方で、本書で提起されている“死にゆく患者が平和と尊厳をもって死に至る五つの過程”に的確に対応するケアは、全体として行われているとはとてもいえない。
 高齢化社会が加速度的に進行する日本において、病院の基本目的の一つとして「死を平和と尊厳をもってむかえられること」におき、現在の病院の運営を抜本的に見直すことが求められている。
 また本書が提起した「死」のむかえかたから、終末医療(=生活)のあり方として、「病院で死ぬことの非人間性」が指摘され、欧米ではホスピス、「家庭での看取り」なども大きな選択肢になりつつある。
 日本でもそうした認識が深まりつつあり、現実的な選択肢となってきているが、例えば「家庭での看取り」を政府も施策として取り上げつつあるが、「健保財政健全化=医療費削減」の思惑が強すぎ、施策として一番重要なそれをスムーズに実施するための環境整備に本腰を入れることが緊喫の課題である。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://yosim.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/2179

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)