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映画「ダ・ヴィンチ・コード」を観る

 この映画は、ベスト・セラーとなった原作を映画化したものである。上映前の原作者・カトリック教会・ソニー(制作・配給)の三者のやりとりでも話題をよんだ。
 多くの人が話しの筋をしっていると思われるし、たとえ知らない人がいてもここでそれを紹介するのは、マナー違反なので、以下この映画を見て考えたことを記す。
 映画の印象は、「そこそこ面白かったが、原作を読んだ人が観るほどのことはない」である。
 映画「ダ・ヴィンチ・コード」ソニー・ピクチャア制作・配給
* 独断と偏見
 ・ 宗教の本姓: まず考えさせられたのは、宗教とは何か?キリスト教(主としてカトリック教会を念頭に置く)は、キリストが説き・実践したように“愛”の宗教である。これをキリスト教の光の部分とすると、闇の部分はこの映画にも触れられているように(この映画の内容が事実であるかどうかにかかわりなく)、他宗教との宗教戦争と内部での異端狩りにより神の正義の名の下に多くの人々を殺してきた歴史にある。

しかし、これはキリスト教のみにみられた特徴だろうか?ほとんどの宗教は、共通して“愛”を説き、“殺生を禁じ”ている。だが、キリスト教と同じように“神”“正義”の名の下に、多くの人々を殺してきたという血塗られた歴史をもっている。
 中村元はそのような歴史を指摘すると同時に、その例外としてインドの宗教、特にブッダの原始仏教とジャイナ教をあげている。
 とすると、血塗られた歴史は、宗教の本姓がもたらしたものではないようだ。
 ・ 人間の本性: では、“愛”を説く宗教が、“多くの人間を殺す”という矛盾を何故生み出すのか?J・クリシュナムルティは、「それでは宗教的、政治的、あるいは経済的戦争を引き起こすものは何でしょうか?あきらかにそれは民族主義やイデオロギーや、特定の教義の信奉なのです」という。それは「心の安定」を求める人間が、真実かどうかに関わりなく、特定の教義・政治的信条などのイデオロギーを「信念」として執着するという人間の本性が“血塗られた歴史”を生み出したのだと指摘する。
 同時に、それは多くの人間がおちいっている陥穽ではあるが、執着を取り去り、虚心にあるがままの一瞬一瞬を見つめることにより=真実を把握することにより、抜け出すことができる、という。
 J・クリシュナムルティは、人間性が血塗られた歴史を生み出すと同時に、それを避ける道を選ぶことも出来ると主張する。少なくともこれまでの人類の歴史は“血塗られた歴史”が圧倒している。しかし、これからは----?

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