« 「この最後の者にも」を読む | メイン | 神田・神保町 »

「二十一世紀の資本主義論」を読む

 本書は、1997年のアジアの金融危機の背後にある基本原理を明らかにする書下ろしの「二十一世紀の資本主義論ーグローバル市場経済の危機」巻頭論文と、「ヴェニスの承認の資本論」のあとがきで、資本主義という逆説説的な社会機構とその根底にある貨幣という逆説をめぐってこれからも語りつづけていくことになるだろうと述べたことを踏まえ、1985年以降書き続けられた文章で構成されている。
 本書には、多くの文章が載せられているが、著者の眼は一貫して“資本主義の本質はなにか”を、“利潤とはなにか”、“貨幣とはなにか”、“純粋資本主義のもとではなにがおきるのか”を過去の経済学の主要学説を批判的に検討しながら、切れ味鋭くユニークな見解を打ち出す。“二十一世紀の資本主義”を考えるにあたって必読の、圧倒的な説得力を持った好著。
 「二十一世紀の資本主義論」岩井克人、筑摩書房、2000

 著者は、人類の歴史とともに始まる経済ならびにアダム・スミス以来の経済学の歴史を振り返りながら、主要経済学説を切り捨て、独自の見解を次の三つの主要領域で提示している。
 1)利潤の源泉: 1776年のアダム・スミス「国富論」以来利潤の源泉を労働価値説におく理論が主流をなしてきた。
 著者は、これは産業資本主義の勃興期にそれを唯一の資本主義とみなした形而上学的誤りだと指摘する。資本主義はノアの箱舟以来の商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業資本主義=情報資本主義の三つの資本主義があり、いずれも利潤の源泉は“差異”にあるとする。商業資本主義は、遠隔地貿易に見られるような複数の価値体系のあいだの差異の媒介に、産業資本主義は、一国経済の中に市場化された都市と市場化されていない農村が共存しているところから生み出される労働生産性と実質賃金率の差異に、情報資本主義は情報の差異そのものを商品化することに利潤の源泉とみなす。
 2)貨幣論と投機論: 貨幣が貨幣として機能するのはなぜか?二つの学説、貨幣商品説と貨幣法制論を紹介し、ただちに双方とも誤りだと断言する。
 金が金貨になり、金貨が紙幣になりという貨幣の歴史のなかで、だんだんとその実体性を失い、貨幣は何らかの実体的な価値に支えられているのではなく,貨幣として使われているから貨幣であるという自己増殖法によって支えられている純粋に形式的な存在であるという。すなわち、人々が貨幣は将来にわたって貨幣として機能していくだろうと考える「予想の無限の連鎖」によって支えられているとする。
 エレクトリック・バンキング、電子マネーの登場は、電子情報そのものが貨幣として機能し、貨幣の形式性が純粋に示される。
 貨幣論から著者はただちに投機論を始める。
 市場における商品の売買活動を貨幣に焦点をあてて眺めると、貨幣をモノと交換に受け取る=貨幣を買うこと、貨幣をモノと交換に手渡す=貨幣を売ることでもある。言いかえれば、貨幣とは貨幣とは他人に売るために他人から買うモノということにある。他人に売るために、他人からモノを買うのは、広義の投機にほかならない。
 この観点に立つと、一般の生産者・消費者といえども貨幣を保有するかぎり、投機にかかわらざるをえないことになる。
 著者は、投機論を、自由主義思想のチャンピオン、ミルトン・フリードマンの学説の紹介から始める。フリードマンは、投機家とは安く買って、高く売る人間のこと、それは、生産者が高いときにモノを売り、消費者が安いときにモノを買うのと本質的にどこも違わないといい、投機家は生産者から買ったモノを消費者に売るという暗黙の前提に立ち、投機は市場に混乱をもたらさず、逆に安定をもたらすと主張する。
 しかし、投機家がお互い同士で売り買いをはじめたらどうなるなるか。市場はまさにケインズの「美人コンテスト」の場に変貌し、そこに成立する価格は実際のモノの過不足から無限級数的に乖離し、究極的にはすべての投資家が予想した価格が市場価格として成立し、価格の乱高下を引き起こすことになると指摘する。
 同じく市場をあつかい、同じく人間の利己性と合理性とを仮定しながら、市場には本来的にはつきまとうという、アダム・スミスと真っ向から対立する理論が提示されたことになる。
 3)資本主義の未来: 著者は、純粋化された資本主義であるインターネット資本主義の下では、不安定性は、過去よりはるかに増幅されたかたちで発現、、金融危機がくり返し起こるだろうという。
 これまでスミスの「見えざる手」が曲がりなりにも働いており、チョボチョボの安定性を保っているようにみえるのは、市場経済を不純にするさまざまな「外部」の存在が、その本来の不安定性の発現を抑えてきたからだとする。
 同時に、金融危機の多発は、それによってグローバル化した市場経済そのものが崩壊することを意味するわけではないという。
 不安定性を救う救い主としてコピーレフトのような運動が何らかの役割を果たす可能性があると指摘する。 
 市場経済の真の危機は、基軸通貨ドルの危機、すなわち、ドルに対する「予想の無限の連鎖」の崩壊によってもたらされる。
 しかし、それの真の解決はグローバル中央銀行の設立以外にありえないが、現状のグローバル市場経済の中では、国民国家の錯綜した利害関係を超越する独立性を保証しうる文化的政治的経済的基盤は何も存在しない、といって筆を置く。
* 独断と偏見
 ・独断: 前から経済関係書を読むとイライラがつのり、腹の立つことが多かった。切り口・スタンス・内容いずれをとっても、これでも経済学派「社会科学」といえるのかという思いである。
 本書は,そうした意味で久しぶりに「スッキリ」した気分で読み終えることができた、快著である。
 利潤の源泉「差異」説、その原理が貫徹する商業資本主義・産業資本主義・情報資本主義という三つの資本主義、「予想の無限の連鎖」という自己循環性の上に成り立ち、それゆえに不可避的に投機と結びつく市場経済、純粋化された資本主義であるインターネット資本主義の増幅された不安定性の行き先、いずれも圧倒的な説得力をもっている。
 ・偏見: 本書で著者は、自分に大きな宿題を出している。すなわち、「増幅する不安定性を抱えたインターネット資本主義を崩壊させない手立てはあるのか?」である。
 極楽トンボの最大の関心もそこにある。
 著者は、「コピーレフト」などの「贈与論」的運動に何らかの役割を期待するかのような一文を遺しているのみでそのほかには何も語っていない。
 「自由主義」が「市場原理主義的」色彩を強める今日の風潮の生み出している最大の問題は、「マネー崇拝」の強まりにより、「公正=社会正義」が見失われつつある点であろう。
 そうした点を踏まえると、今、求められているのは、「市場原理と共生原理の多軸原理で市場主義のネガを消し、質を中心に効率を高める経済のあるべき姿」のヴィジョン構築であろう。