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「時をかける少女」を観る

・ この映画は、筒井康隆の原作に大幅に手を入れた物語をアニメ化したものである。原作は文庫本で約110ページの短編で、ストーリーも骨組みのみといった話であるが、映画化にあたり、ストーリーに膨らみを持たせ、アニメの絵の完成度も極めて高く、稀にみるレベルの傑作となっている。
・ 原作を生かしているのは、二人の親友の男子高校生と一人の女子高校生の友情(と恋愛)、そのうちの一人が未来から時間を飛ぶ(タイム・リープ)能力で現代にきており、その能力を少女に伝える。二人の間に友情を超えた恋心が芽生えるが、未来での再会を予感(期待)させながら、少年は未来に帰る。
・ 「時をかける少女」監督: 細田守、原作: 筒井康隆、脚本: 奥寺佐渡子、角川映画

・ この手の映画のストーリーの詳細を紹介するのは、マナー違反なので、ストーリー面で原作をうまく発展させている部分を2・3挙げてみる。
 主人公の少女(紺野真琴)が、自分に時間を遡るという特殊能力を身に付けたらしいという戸惑いを感じて、相談するのが30歳代独身の叔母芳山和子(通称魔女、原作の主人公)。彼女がタイム・リープについて説明してやり、また映画の最後の方でこの叔母の高校時代の写真(男子高校生二人に挟まれた)が映され、原作を読んでいない観客にも、この叔母にも同じような(タイム・リープも)高校生時代があったのだ感じさせることなどをふくめ、全体としての物語に厚みを加えている。
 超常現象を扱った話の腕の見せ所は、いかにそれを自然に起こりそうと思わせるかにある。この物語で言えば、タイム・リープ能力をえるということは荒唐無稽そのものなので、その潜在能力を発現させるキッカケの説得力ということになる。
 原作のきめの粗さにくらべ、映画では、そのキッカケを、坂を全速力で自転車に乗って駆け下って来て、止まりきれずに踏み切りの遮断機にぶつかり、電車に轢かれそうになるという場面に設定している。
この場面設定により、度重なるタイム・リープがごく自然にここで行われることになる。
・ 映像面でも評価大いに大である。
 超常現象を自然に見せる映像面のポイントは、日常生活をいかに丁寧にかつリアルに描ききるかにある。このため、映画では、原作になっかた高校ならびに主人公の自宅での生活に相当の時間をかけて映像的にも美しく描くことに成功している。
 このベースの上に、タイム・リープならびに時間停止というアニメの見せ所の映像が生み出される。
 これらの超常現象の場面もアニメの特性をうまく使い、タイム・リープ中ならびに時間停止中を自然にかつきわめて丁寧に描くことに成功している。
* 独断と偏見
・ この映画は、原作のメッセージ「青春(子供から大人になる間)の友情・恋は人生に一回限りの素晴しいものであり、その青春は時代を超えて受け継がれていく」を正面から受け止め、原作を完成度では大きく超えて映像化に成功している。
・ この映画を観てすぐに思い浮かんだのは、「ゲド戦記」との対比。
 「ゲド戦記」は、ストーリー的にも原作の味も香りも感じさせない、映像的にもアニメの特性を生かしきれない、期待はずれの大駄作だったのに対し、「時をかける少女」は、ストーリー面でも原作を超え、映像面でもアニメの特性を生かしきり、大傑作になっている。

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