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「キンキー・ブーツ」を観る

・ 「キンキー・ブーツ」というのは、「変態ブーツ」という意味で、ゲイの人たちの履くセクシー・ブーツのことを意味している。
・ この映画は、倒産寸前の靴会社の四代目を継いだ若社長が、生き残りをかけて、「キンキー・ブーツ」というニッチ市場に参入し、見事成功するという実話に基づいて制作されたものである。
・ 監督は、ジュリアン・ジャロルド、テレビで数々のヒット作を生み、映画監督初デビゥー、主役の靴会社社長役チャーリーを演じるのは、オーストラリア生まれで舞台・映画で活躍するジョエル・エドガードン、ドラッグ・クイーンのローラ役を演じるのは、黒人で始めて舞台でロミオを演じ、映画でも大活躍の個性派俳優キウウェテル・イジョフォー。
・ 「キンキー・ブーツ」ミラマックス・フィルムズ提供、ハーバー・ピクチャーズ制作、2005年

・ 実話は、ノーザンプトンというイギリスの保守的な田舎町の男物の靴会社の四代目社長が、ポンド高によりピーク時の生産量が三分の一になり、倒産の危機に直面した時に、一本の電話で、「赤いエナメルのサイズ28センチのキンキー・ブーツ」の注文を受けたことに端を発する。
 マーケット調査、デザイン、制作自分で行い、しかもブーツを履いてくれる人間も見つからず、脛毛を剃って自分でモデルを演じることまでやり、ニッチマーケットへの参入に成功、会社の再建を果たし、息子に五代目を継ぐことを楽しみにするまでになリ、イギリスで大きな話題を呼んだ。
・ 映画は、基本的には、実話の枠組みを踏まえながら、ストーリー性をもたせるために、ローラというソーホーのドラッグクイーンを登場させている。
 この工夫により、映画はがぜん面白くなり、かつ見せ、聞かせ、話が転がっている。
・ ストーリーとしては、いくつかの節目がある。
 最初の節目は、父親の急逝により若くして社長の座を継いだチャーリーが、何をすればいいのか分からず、15人の首切りを余儀なくされ、解雇を申し渡す場面で、一人の若い女子従業員から、「どうしようもないじゃないか(What can I do?)と言ってて、どうするの。何とするのが仕事でしょ!」と言われ、社長としての自分の役割に目覚める時。
 二番目は、ヒョットしたキッカケからローラと知り合い,「キンキー・ブーツ」というニッチ・マーケットの存在に気づき、ローラと協力して工場に篭もって開発に当たるが、保守的な田舎町の従業員の理解を得られず、ミラノ・ショーの出品のデッド・ラインに試作品が間に合いそうになくなる時。
 三番目は、ミラノ・ショーの前日、チャーリーのつまらぬ八つ当たりで、ローラを傷つけ、肝心のショーの
舞台に穴が開きそうになる時。
 映画では、いずれも主人公のチャーリーの成長と活躍で危機を乗り越え、ハッピー・エンドで終わるという風に描いている。
・ この映画は、ストーリー、キャスティング、映像(特に田舎の歴史のある靴工場、ソーホーのローラのショー)、歌、無駄がなく心地よい話のテンポのいずれをとっても素晴しく、役者の熱演とあいまって、第一級の映画に仕上がっている。
* 独断と偏見
・ この映画は、実に楽しく、よく出来ていて、かつ感動的である。
 なんといっても圧巻はローラ。黒人の巨漢の歌・踊り、女装をしない場面でも女らしさを出す演技力、工場の現場の中核で町の腕相撲チャンピオンのドンに腕相撲で負けてやり、またミラノ・ショーの舞台にギリギリの場面で登場という男気?もみせる。
 誰が考えたって、この映画の主役はローラなのだ。
 だが、なぜそうなのかと、それにもかかわらず、主人公をチャーリーとせざるをえなかった理由は以下に記そう。
・ イギリス(西洋)では、一人前の人間としてみなされるかどうかの重要な判断基準に「自我の確立」があげられる。
 具体的にいえば、男はあくまでも力強く・論理的で・行動力がなければならず、逆境に直面したら、敢然と立ち向かい、それを克服することが期待されており、こうした考えは現在でも広く一般に受け入れられている。
・ 上に挙げた 三つの節目を乗り越えるためには、主人公の人間としての成長が必要であったというのが、この映画の伝えたい最大のメッセージなのだろう。
 このメッセージを読み解く鍵は、分析心理学家ユングの「ペルソナ」と「アニマ」という概念にある。
 「ペルソナ」という言葉は、もともと古典劇において役者が用いた仮面のことで、ユングはわれわれが外界に対してつける人格的な仮面(自我)という意味に使っている。
 男性の場合であれば、力強く論理的、すなわち、男らしくなければならない。
 第一の節目は、解雇した女性従業員と婚約者から「周りの環境のせいにしないで、あなたは何をするの?」と迫られ、自分の役割を認識、「工場と従業員をまもる」と決意し、そのための行動を取り始める、すなわち一人前の男としてのペルソナ(成熟した自我)を確立する(成長する)ことにより、乗り越えられた。
 第二の節目は、ミラノ・ショーに出品する試作ブーツの製作のデッド・ラインに従業員に残業を断られ、間に合いそうもなくなる時。
 この状況は、なぜ生じたのか?ペルソナの男性面、すなわち「ここにニッチ・マーケットがあるのだから、
残業してでも社運をかけたミラノ・ショーに間に合わせるのは当然」というペルソナ(自我)の男性論理だけでは、人(従業員)は動かせないから。
 この事態を乗り越えられたのは、ローラの働き。ローラは、工場の中核で従業員感情を代表するドンに度重なる差別的言動を受けたにもかかわらず、聖母マリアのごとくこれを赦し、腕相撲大会の決勝で最後に勝ちを譲り、面子を立ててやりながら、「偏見を棄てろ」とささやきドンを変えるという叡智を示す。
 これにより、従業員は、夜を徹して働き、試作品を完成させる。
 第三の節目は、ミラノ・ショーの前夜、チャーリーがローラを傷つけたため、ローラがミラノに現れず、ショーに穴が開くという前夜、チャーリーが電話をかけ、論理で説得しこれが奏功し、ローラのチームがギリギリ間に合い、ショーを大成功させるというのが映画の表面上のストーリー。
 だが、本当にローラがミラノ入りしたのは、チャーリーの功績なのだろうか。これは、チャーリーの論理の勝利というよりも、人間として大きく成長したローラが、ドンに示したようにチャーリーも赦すという寛容さと、「キンキー・ブーツ」を世に出すには、ミラノ・ショーを成功させる以外に方法がないという叡智で自ら行動をおこしたと考えた方が、人間理解は深まるし、話もより楽しめるだろう。
 ローラの人間的成長は、ユングのいうところの「アニマ」の顕現と成長であると考えると理解しやすい。
 ユングは、数多くの心理療法患者に接するなかから、人間は自我(表層意識)だけでは、人間として精神のバランスがとれず、全体のバランスをとるために自我(ペルソナ)の確立にともない、それを補う人格=アニマが登場することを発見する。
 アニマは四段階で順次登場するとユングはいう。第一段階は、生物学的な段階(女の性の面の強調、娼婦のイメージなど)、第二段階は、ロマンチックな段階、第三段階は、霊的な段階、第四段階は、叡智の段階である。
 チャーリーがローラに出会った最初の段階が、この第一と第二段階に相当し、第三段階が、ドンとチャーリーに傷つけられたローラが二人を赦すところ、第四段階が、ドンを協力させるように変えたり、ショーを成功させるためにミラノに現れるという叡智をローラが示すところ。
 「キンキー・ブーツ」市場に参入し、工場を再建するには、チャーリーの全的な人格的成長が必要だったのであり、実話のチャーリーは一人(チャーリーとローラの二人分)でその成長を遂げたからこそ実際に成功したのだろう。
 この映画が、主人公はあくまでもローラではなく、チャーリーだとしているのは、イギリス人(西洋人)の常識(これは実は非常識であり、偏見なのだが)、ヒーローはあくまでも強く・論理的な男でなければならず、アニマ的な女性原理が勝利するなどがあってはならないことなのだ。
 そのため、主人公はあくまでもチャーリー、そしてペルソナとアニマは、チャーリーとローラの二人に分けて、物語を作らざるをえなかったのだ。

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