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「2019年狂言鑑賞」

1.「横浜狂言堂1月公演」1月13日 ****
 : 「武悪」(武悪)山本則孝、(主)山本則重、(太郎冠者)山本凛太郎、「福の神」(福の神)山本東次郎、(参拝人甲)山本則重、(参拝人乙)山本凛太郎、「解説」山本東次郎
 : 「武悪」は初見だったが内容も特色・見所があり、今まで観たなかで最長(65分)で良い曲を見せてもらった。「福の神」は新年らしいおめでたい曲。「解説」はいつも道理の熱のこもった素晴らしいものだった。今回は、「武悪」の解説に時間を割き、現代人にはわかりづらい動作に込められた意味などを説明。
2.「横浜狂言堂4月公演」4月14日 ***
 : 「解説」茂山千之丞、「左近三郎」(狩人)茂山あきら、(出家)茂山茂、「察化」(太郎冠者)茂山千之丞、(主)茂山茂、(すっぱ)松本薫
 : 「解説」は襲名後横浜狂言堂初登場の千之丞。父を飛び越えて自分が「千之丞」を襲名した事情、作品解説、茂山家の狂言の特徴をポイントをよく抑えていながら、観客を笑わせながらの出色の出来。「左近三郎」はまあ上出来。「察化」は千之丞がとぼけた味を上手く出して熱演、会場を沸かせた。

3.「横浜狂言堂5月公演」5月12日 ***
 : 「解説」石田幸雄、「茶壷」(すっぱ)内藤連、(中国の者)飯田豪、(目代)石田淡朗、「泣尼」(僧)石田幸雄、(施主)竹という気合が山悠樹、(尼)月崎晴夫
 : 「解説」は物語の内容を中心としたもの。「茶壷」は笑いが起こったのは最後のオチの部分。「泣尼」は「あまり面白くないのであまり演じられない」とのことだが、尼の熱演で結構笑いを取っていた。全体的に「もう一工夫あればもっと楽しくなる」と感じた公演だった。
4.「第二回東次郎家伝十二番」5月25日 ***
 : 「抜殻」(太郎冠者)山本則秀、((主)山本則重、「花盗人」(三位)山本東次郎、(何某)山本泰太郎、(花見の衆)山本則孝、山本則重、山本凛太郎、寺本雅一、若松隆
 : 横浜能楽堂企画で一年間毎月山本東次郎の公演をおこなう狂言の二回目。特に力が入っていたのは「花盗人」。「横浜狂言堂」では出演者数などの制約があるようだが、今回は演じたいように演じるという気合が感じられて、見ごたえがあった。
5.「横浜狂言堂6月公演」6月9日 **
 : 「解説」能村晶人、「子盗人」(博奕打)小笠原匡、(乳母)河野佑紀、(主人)上杉啓太、「今参」(大名)野村万蔵、(太郎冠者)能村晶人、(新参の者)野村万之丞
 : 「解説」は野村万蔵家流を踏襲。基本的に荒筋以外には触れないというスタイル。わかりにくいキーワードぐらいは説明するぐらいのサービスは必要。「今参」はめったに演じられない曲目。野村萬の指導かともかく、面白くないように無いように演じているのもいつも通り。
6.「第三回東次郎家伝十二番」6月22日 ****
 : 「楽阿弥」(楽阿弥)山本則孝、(旅僧)山本則重、(所の者)若松隆、「花子」(夫)山本東次郎、(太郎冠者)山本凛太郎、(妻)山本泰太郎
 : 2曲とも演じられることの少ない出し物。「楽阿弥」は初見だったが、ほとんど能と変わらない珍しい狂言。「花子」は以前観た野村萬演じた曲と比較しながらの鑑賞となったが2人の違いがはっきり出て面白かった。野村萬の「花子」は一度も笑わなかったが、今回は他の観客をふくめ、随所に笑いが起こり、東次郎らしが出ていて楽しめた。今回の2曲とも東次郎と一門の渾身の力が感じられ、長い間記憶に残るであろう舞台だった。
7.「第五回東次郎家伝十二番」8月18日 ****
 : 「朝比奈」(朝比奈)山本則秀、(閻魔王)山本凛太郎、「布施無経」(住持)山本東次郎、(檀家)山本則俊
 : 能は彼岸と此岸を行き来するのに対し、狂言が扱うのは現世のみ。死後を恐れるな、あの世もこの世も同じ、これ以上悪い世はないのだから。こうした考えを、「朝比奈」は描く。仏教が盛んになり、みんな極楽に行ってしまうので地獄が困窮し、やむなく閻魔大王が六道の辻に出て罪人を地獄に突き落とそうとするが、通りかかった朝比奈に散々に打ち据えられてしまうという珍しい曲。
 「布施無経」は、「一銭一毛無きをこそ、禅の眼とはしたれ」という理想と、檀家の布施によって支えられている現実の生活の間で葛藤する僧の姿を描く。お経をあげ終わったのに、お布施を渡すのを忘れている檀家。なんとかそれを悟らせようとする僧の台詞と仕草。東次郎の絶妙の演技で、場内は大いに沸いた。
8.「横浜狂言堂9月公演」9月8日 ***
 : 「解説」茂山宗彦、「右近左近」(男)茂山千五郎、(女房)島田洋海、「萩大名」(大名)茂山千三郎、
(太郎冠者)茂山宗彦、(庭の亭主)島田洋海
 : 「解説」は、筋の説明を中心に、ユーモアを交えながら的確に、「右近左近」「萩大名」は、観客の笑いを誘う演出が随所にみられ、大いに観客の笑いを取っていた。「狂言」の本質をよく見据えた公演で、好感がもてた。
9.「第六回東次郎家伝十二番」9月22日 ***
 : 「法師が母」(夫)山本則重、(妻)山本則秀、「月見座頭」(座頭)山本東次郎、(上京の者)山本則俊
 : 第六回の2曲は、いずれも笑いの要素のない狂言。人間の勝手さ、弱さの陰には、それに苦しめられ、悲しむ人間がいるという人間世界のありようをさりげなく伝えるのには、鍛えられた芸の力がいる、ということを感じさせられた公演だった。
10.「第七回東次郎家伝十二番」10月26日 ***
 : 「鍋八撥」(浅鍋売)山本則孝、(揚鼓売)山本則重、(目代)山本泰太郎、「東西迷」(住持)山本東次郎
 : 「鍋八撥」は、新しい市が立つにあたり、一番乗りした商人は末代まで優遇するとの高札が建てられる。二人の商人が、一番乗りしたと言い張り、譲らない。そこで目代が、二人に勝負をして決着をつけるように言う。そこで、二人は、商売自慢をしあい、譲らない。最後に浅鍋売が、誤って浅鍋を割ってしまうが、「鍋が沢山に増えてめでたい」と言って終わる。
 「東西迷」は、山本東次郎が、復曲した珍しい一人狂言。住職が、多額のお布施をもらえる大法会に招かれ、二つ返事で了解するが、当日になり、その日が、毎月招いてくれる大切な檀家の食事会と重なっていることに気づき、どちらに出席すべきか、迷いに迷う。その迷いに、人間の煩悩の深さをしめす。そして、ようやく決心して、大法会に向かうが、到着してみると会はすでに終わっており、次に檀家に向かうがここでも食事会は住んでいた。寺に戻り、自分の迷いを反省するが、これが人生だと割り切って終わる。
 この二曲は、一方的な、終わり方を避け、これも人生と柔らかく肯定する狂言の特色をよく示す作品であるという共通点を持つ。
11.「横浜狂言堂1月公演」11月10日 ***
 : 「解説」茂山千三郎、「二千石」(主人)茂山逸平、(太郎冠者)鈴木実、「素袍落」(太郎冠者)茂山七五三、(主人)鈴木実、(伯父)茂山千三郎
 : 「解説」は上演曲の紹介は「二千石」のみ。あとは「狂言のメソッド」を扇を開き・立つという例で実例で示すというユニークなものだった。「二千石」は、珍しい・かつ難しい曲。難しいというのは、筋の運びについていけないところがあり、物語に没入できない曲。「素襖落」は、伯父の所に使いに行った太郎冠者が、酒を振舞われ、飲み進むにつれて、言葉・ふるまいに変化が顕われるさまをうまく演じるにつれ、会場も大いに盛り上がった。
12.「第八回東次郎家伝十二番」11月30日 ***
 : 「三本の柱」(果報者)山本泰太郎、(太郎冠者)山本則孝、(次郎冠者)山本則重、(三郎冠者)山本則秀、「八尾」(閻魔王)山本東次郎、(罪人)山本凛太郎
 : 今回上演された二曲とも狂言には珍しく「笑い」の要素がほとんどない作品。「三本柱」は、狂言の持つ「祝言性」をあらわしたもので、三本柱を一人が二本づつ担ぎ、息の合った動きをするには厳しい修業が必要とのこと。「八尾」は閻魔王に80歳を超えた東次郎が挑戦。閻魔王に求められる力強さ・荒さを気迫をこめて熱演。鬼気迫る迫力だった。
13.「第九回東次郎家伝十二番」12月14日 ***
 : 「木六駄」(太郎冠者)山本凛太郎、(主)山本則秀、(茶屋)山本泰太郎、(伯父)山本則俊、「米市」(男)山本東次郎、(有徳人)山本則孝、(通行人)山本則重、山本凛太郎、山本修三郎、寺本雅一、山本則俊
 : 「木六駄」「米市」は、山本東次郎と弟子の力の差をまざまざと見せつけられた舞台だった。弟子たちの演じた「木六駄」は、演じるのが精いっぱいで余裕がなく、したがって観客は楽しむことが出来なかったため笑いも生まれず、東次郎演じる「米市」は、観客は東次郎のペースにあっという間に引き込まれ、大いに笑い、楽しむことができた。

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