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「実利論」を読む

 ・ 本書はカウティリヤの著作と伝えられる「アルタシャーストラ」の全訳である。アウティリヤはマウリヤ王朝を創始したチャンドラグプタ王(紀元前317~293年ごろ在位)の名宰相であったとされる。
 本書の成立をめぐっては、著者ならび成立年代について、カウティリヤ本人によって紀元前4世紀に書かれたという説から、紀元後3~4世紀に別人によって書かれたとする説まで諸説がある。
 本書を通読すると、明確に全体の構成を意識した一人の作者によって書かれたもので、諸説の寄せ集めではないことが、感じ取れる。成立の事情についていたずらに詮索するよりも、じっくりと本書を吟味するほうがより「実利的」であろう。
 「実利論」上・下、カウティリヤ、岩波文庫、1984
 

 ・ 本書は副題が「古代インドの帝王学」であり、マックス・ウェーバーがその著書「職業としての政治」の中で、「インドの倫理では、政治の固有法則にもっぱら従うどころか、これをとことんまで強調した---
まったく仮借ない---統治技術の見方が可能になった。本当にラディカルな“マキァヴェリズム”---
通俗的な意味での---はインドの文献の中では、カウティルヤの“実利論”に典型的に現れている。これに比べればマキァヴェリの“君主論”などたわいのないものである。」と述べている。
・ 以上のように述べると、「実利論」は、マキァヴェリを上回るプラグティックな政治手法を中心に述べた書と受け取られるかもしれないが、それは間違いだ。
 本書は単なる政治手法の書ではなく、経済や法律に関し、さらには学問、王宮、建築、宝石、金属、林産物、武器、秤と桝、空間と時間と単位、紡績、織物、酒造、遊女、船舶、牛、馬、象、旅券、賭博その他諸々の事項に関し、多様な情報を与えてくれる、百科全書的な書物であり、古代インドの社会や文化を知る上での貴重な資料なのである。
 ・ 「実利論」は、バラモン教の教えをその基本としている。すなわち、四姓(バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの各カースト)と四住期(学生期、家住期、林住期。遊行期)の決まりが遵守されていれば世間(の人々)は繁栄し滅びることはないという考えをベースとしている。
 そして、王が行うべきこと、すなわち政治は、「王の幸福は臣民の幸福にあり、王の利益は臣民の利益にある。王にとって、自分自身に好ましいことが利益でなく、臣民に好ましいことが利益である」との認識に立ち、「王杖を全く用いぬ場合は、魚の法則(弱肉強食)を生じさせる。即ち、王杖を執る者が存在しない時には、強者が弱者を食らうのである。王杖に保護されれば、(弱者も)力を得る」として、弱者を含めた人々の幸福を保証することを王道として説いている。
 人生の三大目標法(ダルマ)実利(アルタ)享楽(カルマ)のうち、「実利こそが主要である」とカウティリヤは言う。何故なら実利は法の根であり、また享楽を果とするからである。
 ・ そして、法と実利と享楽をもたらし、守護し、非法と不利益と憎悪とを滅するために、あくまでも冷徹にそれを実現するためになすべきことを、王の長官の任命と監視、立法と司法(違反した場合の罰則をふくむ)と執行、外交、戦争(軍事)、内外での諜報活動などあらゆる分野でなすべきこととその手段を網羅的・体系的に述べる。
* 独断と偏見
 ・ 本書にまず圧倒されるのは、その間口の広さと奥行きの深さ。
 冒頭でいきなり学問論を始める。「学問は、哲学とヴェーダ学と経済学と政治学である」と言い、哲学を独立した学問の一分野であるとする。
 間口の広さ・深さの一例をあげれば、第二巻長官の活動で、地方植民・城砦の建設にはじまり、人間のほぼ全ての経済活動領域を対象にその内容と何をなすべきかが的確に・生き生きと描写され、その当時の人々の暮らしが鮮やかに脳裏に焼き付けられる。
 ・ 「ラディカルなマキァヴェリズムの書か?」: マックス・ウェーバーがその責を負わねばならないのだろうが、この問い自体が間違っている。「実利論」は「君主論」の1000年以上前に書かれており、「マキァヴェリ」を物差しとして測ろうというのは失礼な話。
 マキァヴェリズムを「どんな手段でも結果として国家の利益を増進させるなら許されるとする考え方」と定義すると、「実利論」はマキァヴェリズムではないとカウティリヤは答えるであろう。
 何故なら、「実利論」で述べられている手段(行動)は、法・実利・享楽の実現を阻害している要因を除去するものにすぎないのだから。
 ・ 「行動の書」: 「実利論」は実現すべき国の姿のヴィジョンを明確に持ち、そのために各領域でなすべきことが具体的にかつ網羅的に述べられている。そこが単なる権謀術策の書と大きく異なる。「実利論」で一貫しているのは、行動をとることによってしか目標は達成できないとの視点に立ち、空理空論を述べるのではなく、全て具体的に行動レベルでなすべきことを説いていること。
 ・ 「日本の政治(家)」は?: 「実利論」から日本の政治(家)の現状に目を転じると、その落差の大きさに愕然とする。「これ(実利論)に比べればマキァヴェリの“君主論”などたわいないものだ」と言ったマックス・ウェーバーは、日本の現状を何と評するだろうか?
 「コメントに値せず」ということになるであろう。800兆円という膨大な財政赤字を出して、日本の政治家と役人は何をやりとげたのか?長年にわたる平和な民主主義政体下で。
 カウティリヤは、王権下でも「弱肉強食」を防止し、三大目標である「法」・「実利」・「享楽」を実現し、人々に幸福をもたらすのが政治の使命だと、説いているのだ。
 「それぞれの国は、その国民の身丈にあった政治(家)しか持てない」という真実を直視するなら、日本は「国民の一人一人が“実利論”に学び、目指すべき目標を一人一人が明確にし」、それをお互いに持ち寄り、「共通の目標として共有し、それぞれの役割に応じた行動を取っていく」ことによってしか、現在の閉塞状況に風穴を開けることは出来ないのであろう。

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