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エックハルト説教集」を読む

・ エックハルト(1260年ごろ~1328年)、ドミニコ会総長代理、パリ大学神学部教授、信者大衆の導きと、学問・宗務・霊的導きの三役を精力的に果たし、活躍した人物である。その教説の透徹さゆえに「ドイツ神秘主義の眼(まなこ)」と称された。
 エックハルトは生前に異端として告発され、その死の翌年(1929年)教皇 ヨハネス二十二世により異端宣告を受け、これによりその著作および説教の聞き書き写本の一切が禁止・処分され、エックハルトは歴史の表舞台から姿を消していった。
 しかし、エックハルトはドイツ神秘主義の祖として、その影響を後世のマルチン・ルター、フィッテ、ヘーゲル、シューペンハウアー、ニーチェ、ハイデッカー、ルドルフ・シュタイナー、マルティン・ブーバーなどにも及ぼす。
 「エックハルト説教集」田島照久編訳,岩波文庫,1990年

* エックハルトの説いたところ
 ・ 結論を要約すると、人間は有(自我・意志・知性を有する状態)を離脱して、真に無(自我・意志・知性を完全に無くした状態)になることによってのみ神と合一し至福を獲得できる、ということ。
 ・ これだけだと分かりにくいので、補足すると、人間は本来、認識を基礎とする自我・意志・知性を有している。しかし、人間が、これらの全てを用いて紙との合一のみを求めて、一切の世俗の欲求を断ち、聖人としての生活を送っても、神に近づくことはできない。なぜなら、、自我・意志・知性の全てを用いて神との合一を求める(有の状態の)人間には、時空を超え、永遠・無限である神でさえ、その有が邪魔になって入り込むことが出来ないからである。
 人間が、自我・意志・知性を全て棄て去り、すなわち、有の状態から離脱し無の状態(一切の束縛から解かれ自由になった状態)になったとき、これをエックハルトは「人がどんなものも持たない極限の貧しさ」の状態と呼ぶのだが、ここに神の働く場が生まれ、神が顕在することにより、神と人の合一がはかられる。
 ・ 以上が、エックハルトの説くところであるが、「離脱は、離脱を離脱してこそ離脱である」というような言い方であり、「神秘主義家」の面目躍如たるところであるが、本人も自分の言っていることを理解できるのは、ごく一部の人であろう、と述べている。
* 独断と偏見
 ・ エックハルトの説教の難しさは、本質的には、「神秘主義を言葉で説明し、理解させる」という論理矛盾に敢えて挑戦せざるをえない、ということから生じている。
 ・ エックハルトは、それに加えて、困難の度を増さしめたのは、彼の前提としている論理構造にある。
すなわち、アリストテレス、プラトンに端を発し、キリスト教もそれを受け入れ、後にデカルト、ニュートンに受け継がれていった「二元論」にある。
 二元論に立って、神秘主義を説明するのは、不可能命題と言えるだろう。
 ・ 「神秘主義を言葉で説明する」という論理矛盾ともいえる試みは、歴史の長きに渡って世界中で行われているが、相当なレベルで成功を収めている例が数多く東洋思想においてみられる。
 エックハルトの説くところは、仏教の中観思想の概念・用語を用いると、理解が容易になると思われる。
 エックハルトの言うところの自我・意志・知性を有する状態というのは、仏教でいうところの「煩悩」であり、これは虚妄であり、したがって無価値である。
 この状態は、本質的価値が不在という意味で「空」である。仏教でいう「空」は「無」ではない。喩えていえば、菓子折りに菓子(絶対価値)が全く入っていない状態が「空」である。
 エックハルトのいう自我・意志・知性が有の状態とは菓子(絶対価値)の代わりに煩悩(自我・意志・知性)が状態であり、菓子が入る余地がない。
 自我・意志・知性が離脱し人間の魂が無になった状態は、菓子折りが完全に空になった状態なので、
(遍在する神がただちに)菓子折りいっぱいに菓子が入る(神が顕在し、神と人間との合一が実現する)(仏教的にいうと、絶対価値=仏が充溢する=不空となる)ことになるということなのだろう。

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