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2006年08月27日

神田・神保町古書街

 8月25日に買った本
 ・ 「宗教と科学の接点」河合隼雄、岩波書店、1986
 ・ 「中国故事」飯塚朗、角川選書、1974
 ・ 「谷川俊太郎詩集 続」谷川俊太郎、思潮社、1979
 ・ 「地獄変相奏鳴曲」大西巨人、講談社、1988
 ・ 「食事と性事」本田勝一、集英社文庫、1983

「死ぬ瞬間」を読む

・ 本書は、現代における「死」ならびに末期患者に対する病院の対応に対して鋭い疑問を投げかけると 同時に、あるべき方向を提案し、世界的に大きなインパクトを与えた名著である。
・ 本書のサブ・タイトルは「死にゆく人々との対話」、1969年に発刊された原書を1971年に翻訳出版 したものである。
 この本が書かれた直接のきっかけは、1965年秋、シカゴ神学校の生徒四人が“人生における危機”
の論文執筆に当たって、“死を人間が直面しなければならない最大の危機”として捉え、著者に協力を求めてきたことにある。
 それをシカゴ大学病院の各科統合セミナーとして定着させ、週に一回インタビューを実施、その後参加者で討議を行った二年間の経験をもとにまとめられたのが本書である。
 「死ぬ瞬間」E・キューブラー・ロス、読売新聞社、1971

・ 著者の執筆動機は、数十年前には自分の家で平和と尊厳のうちに死ぬことを許された日々が、医学の急激な進歩により、幼年・青年・中年層に高い死亡率をもたらしていた多くの疾病が征服され、長寿化・老齢化の進行とともに老齢と関係した悪性・慢性の病気に悩む人が増え,同時に死の恐怖を持つ人と情動問題に悩む人がが多くなるという社会変化が生じ、病院で死ぬことが普通になってきたが,病院では死にゆく人に焦点を当てた対応ができていないため、平和と尊厳のうちに死ねない人が多いという問題意識にある。
・ なぜ病院は“死にゆく人”に焦点をあてた対応ができないのか?:
 「病院は歴史的にいうと、その発展の初期には、貧しく窮乏した人々、あるいは死にかけた人びとなための施設だった時代があった。しかし医学や保健関連の科学技術は20世紀に劇的な発展進歩をとげ一変した。死んでいく人たちのための施設から、もっぱら傷病の治癒・治療・修復・回復を引き受ける施設になったのである。」
 「病院は、病を治すという業務を委託された施設であり、臨死患者たちはそうした病院のそうした役割を脅かすものである。病院で働く専門家たちはそれぞれ明確に遂行すべき役割と業務を課せられているが、それらは死に瀕した患者の状況とは相容れないものである。患者の死は専門家たちの役割を脅かし、彼らの間に自分は能力不足だという感情を引き起こす。----専門家たちの任務規定には、人間として臨死患者たちに対応すべしという項目はない。」
 ( 以上「続 死ぬ瞬間」より )
・ 平和で尊厳ある死の過程とは?:
 致命疾患の宣告ー1)否認ー2)怒りー3)取り引きー4)抑鬱ー5)受容ーデクセスシス(解脱)
 「これらの段階は入れ代わることはできず、必ず隣り合い、ときには重なり合っている。こうして多くの患者は、なんら外部の助けを受けることなく最終的受容に達していった。だがそうでない人々は、これらの各段階を通過して平安と威厳のうちに死んでいくためには、他からの助力が必要であった。」
 「病気の段階がどうであれ、---- 患者は最後の瞬間までなんらかのかたちで希望を持ち続けていた。チャンスをほのめかされることなく、希望を与えられることなしに致命疾患を告げられた患者は、最悪の反応を示し、そうした残酷な告げ方をした人とは決して和解することはなかった。わたしたちの患者に関するかぎり、どの人もなんらかの希望を持っていた。わたしたちは、これを忘れるべきではない!」
・ 末期患者の特別なニーズ:
 「もっとも重要なことは、われわれから末期患者に近づいていき、かれの悩みごとのいく分かでも喜んで分けもつ用意があるということを知らせることである。
 死にかかっている患者に協力するには、ある程度の成熟がいり、その成熟は経験からしか得られない。末期患者のそばに静かに不安感なしにすわれるようになるには、まず死と死ぬことに対する、われわれ自身の態度をくわしく反省しなければならない。
 患者が心のドアを開けるのは、恐怖とか不安とかをもたずにコミュニケートできる人間と会う場合である。--- たとえばガンとか死とかいうことが語られても決して逃げたりしないことを彼自身の言葉と行動によって示そうとする。患者はこのきっかけで心のドアを開けるだろう。」
 「患者の生のなかで、苦痛がなくなるちきがある。そのとき心は夢のない状態にはいり、食物欲求は最小となり、周囲環境の知覚はほとんど消えかかり、暗黒となる。 -----
 このときはもう言葉ではおそすぎる。医学が干渉するするにはおそすぎる(医学が干渉すれば、善意ではあっても残酷すぎる)。だが死にゆく人から最終的に離れ去るには早すぎる時間でもある。」 
 「この時間は患者にとって、まさに沈黙の精神療法が行われるべき時間であり、すぐそばに近親がいることが必要である。」
 「言葉を超えた沈黙のうちに、死にゆく患者といっしょにすわる力と愛をもった人たちは、この瞬間が恐ろしくも痛ましくもなく、肉体の機能が平和のうちに終わる瞬間であることを知るであろう。」
・ シカゴ大学病院で起こったこと:
 最初に、“人生における最大の危機としての死”について学ぶために、末期患者にインタビューすることに決めて、著者が許可を求めたところ、各科・各病棟の医師たちはきわめて自己防衛的になり、みな反対した。だが最終的にインタビューに応じるという患者があらわれて実施。回を重ね、シカゴ大学統合セミナーとして、医学校と神学校の大切な教育科目となるとともに、訪問医師・看護婦・看護婦助手・付添い人・ソーシャル・ワーカー・吸入療法専門家・作業療法士など約50名が出席・定着した。
 末期患者とのコミュニケーションが多数の参加者に大きなインパクトと半永久的な影響を及ぼし、末期患者への対応に大きな変化を与えることになった。
* 独断と偏見
 ・ 本書は、1971年に出版されたが、提起された、どう「死」をとらえ、どう病院で末期患者に対応していくかという問題は、現在の日本でますますその重要性を増している。
 ・ 「死」について:
 「冷静に死に直面せず、死から逃避するという傾向については多くの理由があると思う。もっとも重要な事実のひとつは、現代では、死ぬことは多くの点で昔よりはずっと気味悪いものになったということである。いいかえれば、死は、もっと孤独な、機械的な、非人間的な過程となった。」
 こうした指摘は、アメリカ以上に、宗教ならびに哲学(死について答えられるのはこの二つしかない)が稀薄な日本では、より深刻だし、今後さらにその度合いを増すのだろう。
 ・ 「病院で死ぬ」ということ:
「このますます機械化されてゆく、ますます非人格的となってゆくアプローチは、結局死にゆく人を扱うわれわれの自我防衛機制(不安を回避する心理的機制)の発動ではないだろうか?
 このアプローチは、末期患者もしくは重篤患者がわれわれの内部に喚起する不安を取り除く、あるいは抑圧するための、われわれの流儀の手段なのではあるまいか?」
 現在の日本では、こうした状況が一層進み,“スパゲッティ状態”と形容される過剰週末延命医療の問題が深刻になっている。
 その一方で、本書で提起されている“死にゆく患者が平和と尊厳をもって死に至る五つの過程”に的確に対応するケアは、全体として行われているとはとてもいえない。
 高齢化社会が加速度的に進行する日本において、病院の基本目的の一つとして「死を平和と尊厳をもってむかえられること」におき、現在の病院の運営を抜本的に見直すことが求められている。
 また本書が提起した「死」のむかえかたから、終末医療(=生活)のあり方として、「病院で死ぬことの非人間性」が指摘され、欧米ではホスピス、「家庭での看取り」なども大きな選択肢になりつつある。
 日本でもそうした認識が深まりつつあり、現実的な選択肢となってきているが、例えば「家庭での看取り」を政府も施策として取り上げつつあるが、「健保財政健全化=医療費削減」の思惑が強すぎ、施策として一番重要なそれをスムーズに実施するための環境整備に本腰を入れることが緊喫の課題である。

2006年08月08日

「ゲド戦記」を観る

 映画ゲド戦記は、ル=グウィンの小説をスタジオ・ジブリが映画化した作品である。
 原作の小説は、「影との戦い」、「こわれた腕環」、「さいはての島へ」、「帰還」、「アースーシーの風」の五巻で完結しているが、映画はこれを一本にまとめたものである。
 原作の「ゲド戦記」は、「指環物語」、「ナルタニア国物語」と並ぶファンタジー小説との評価をえている。
 ル=グウィンは、第三巻を書いた後第四巻を完成させるのに十六年を、第五巻を完成させるのにさらに十一年を要している。
 「ゲド戦記」は主人公ゲドが魔法使いであり、多くの魔法使い、まじない師、王、王女、竜などが登場するなど、ファンタジー小説の形式をとった哲学小説である。
 では、映画「ゲド戦記」はこの原作を越えているのであろうか?
 映画「ゲド戦記」スタジオ・ジブリ作品、2006年8月8日

 * 独断と偏見
 ・ 著者が作品を完結させるのに約三十年を要したのは、ファンタジーの形式で書いた「ゲド戦記」をファンタジーと哲学書との両立に苦慮したからなのだ。
 「影との戦い」のテーマは、「自我」を無理やり確立した近代人の問題、すなわち心身を分離し身体を切り捨て、さらに心(精神)を意識と無意識に分離し無意識を切り捨てることにより確立させた自我hは、心身一体で相互に関係を持っているがゆえに影響を与え合う現実の世界と遊離し、人間は不安に陥らざるをえないということ。
 ゲドを襲う影とは、自我が切り捨てた自己の他の部分であり、自我と影が一体になることによってしか影との戦いに勝てない=全き個人としては生きられないと、ル=グウィンは訴えているのだ。
 「こわれた腕環」のテーマは光と闇、光は光のみで、闇は闇のみとしては存在しえず、闇があるからこそ光が生じ、光があるからこそ闇が生じ、世界の平和(調和)がもたらされるということ。
 「帰還」のテーマは生と死。光と闇と同様、死があるからこそ生きることの意味と充実ガあると著者は言う。
 物語として三巻までを眺めると、第一巻は、ゲドの影との戦いの勝利(自己統合)にようる真の自己の
確立と魔法使いとしての自立、第二巻は、闇の世界との戦いにテナー(闇の墓所の巫女)と力をあわせ、闇の力を打ち破り、腕環の残された半分を奪い返し世界に調和と平和をもたらし、ゲドも魔法使いとしての成長をを示す。第三巻は、死の世界の王との戦いでアレン王子と協力し、生と死の調和を取り戻したがゲドは魔法使いとしての力を使い果たしてしまう。
 第四巻との間の十六年の空白は、ファンタジーの形式をとった以上、それにふさわしい世界観をストーリーとして描ききらねば筆は置けない、しかしそれをどう具体的に書くかに作者が行き詰まったことを語っている。
 作者は、テハヌー(テルー)という登場人物(竜が人間世界に送り込んだ娘)を考え出したときに、再び書き始めることが出来たと述べている。
 これには二つの意味があるのだろう。一つは、人間と竜の棲み分け、共存・共栄とそれを脅かすものへの共闘という世界観の確立、二つ目は、ストーリーの動かし手に超自然的な力に対抗・打破する能力を持った登場人物が必要だが、ゲドはすでに魔法使いとしての力を失っており、レバンネン(国王)とテナー(元アチュアンの闇の墓所の巫女)に魔法使い的な力を発揮させるのは不自然だが、テヌハーをえて無理なく物語を展開させることが可能になった。
 第四巻「さいはての島へ」と第五巻「アースーシーの風」は、竜が世界の混乱をはかる邪悪な力を打ち砕く舞台回し役となり、物語は完結する。
・ 映画の内容と評価
 1)場面・人物設定: 第五巻「アースーシーの風」を映画の場面としている。この場面での人物設定は原作と変えており、ゲドは大賢人(原作では魔法使いの力を失った男)、レバンネンは17歳の王子(原作では国王)。
 2)ストーリー: 「影との闘い」の場面の主人公はレバンネン(原作ゲド)、「こわれた腕環」はカット、「帰還」は大幅にストーリーを変更カットし、レバンネン一人で戦うストーリー(原作はゲドと二人で戦う)に、「さいはての島へ」はカット、「アースーシーの風」は大幅変更・カット。原作では、邪悪な力を打ち砕くのはテヌハーの呼んだ竜だが、映画ではレバンネンが一人で。
 3)評価:
 (1)原作を読んだうえで映画を見る立場から: ル=グィンがファンタジーとして最も伝えたかったメッセージはその世界観。「人間と竜が棲み分け、共存・共栄し、それを脅かすものに対しては協力して闘い守り抜く」という世界観を全く伝えていない。
 
 登場人物の役割も原作と大きく変えられており、なにより不満なのは、主要登場人物の個性が全く伝わってこないこと。
 映像面での注目点は、原作の影・死との闘い、竜との対話の描き方が、アニメの強みを生かす腕の見せ所だったのだが、ストーリーの大幅変更・カットに加え、お座なりで創造性の欠けた映像描写で全くの期待はずれだった。
 (2)映画だけ観る立場から: やたら不自然さが目に付き楽しめない。
 最強の魔法使いである大賢人ゲドが邪悪な力(魔法使い)に何故手も足も出せないのか理解不可能。
 先祖伝来の魔法で鍛えられた宝刀を抜けなかったレバンネンが、クライマックスで唐突に抜いたり、最後の場面でテハヌーが突然竜に変身しレバンネンを助けるなど。
・ 結論: 大駄作
 ファンタジーの最大のメッセージの伝達の失敗、原作五巻分を一本にまとめるという制約はあるにせよ、その改作のまずさ、不自然さが目立ちすぎ、アニメの特性も生かしきれず、原作の味も香りもない駄作にしてしまった。