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2006年04月29日

「自我の終焉」「生の全体性」を読む

 著者のJ・クリシュナムーティは、日本ではほとんど知られていないが、欧米とインドを中心に活躍し、二十世紀最大の思想家の一人と言われている。「自我の終焉」はその代表作、「生の全体性」は、その考えを分かりやすく伝える討論集である。
 訳者は、クリシュナムーティの最大の功績として、1)私たちの頭の中で絶え間なく動き続けている思考の構造と本質を見事に解明したこと、2)絶対の「真理」に到るための糸口を見出したことをあげ、あわせてこの発見について、R・パウエルの評、「クリシュナムーティが心理の領域で為し遂げたことは、物理学においてアインシュタインが行った革命に匹敵すると言ってよい」を紹介している。
 J・クリシュナムーティ「自我の終焉」篠崎書林、1980、「生の全体性」平河出版、1986

* 本書の内容
世界の問題点: 世界は、戦争、混乱、悲惨、破壊、富める者と貧しい者の苦しみに満ちている。「あな
た」と「私」の問題は、この悲惨から直ちに脱出することが可能かどうか。というのは、“「私」と「他の人」との関係が社会を作っている以上、根本的に「私自身」を変えなければ、社会の社会的機能の変換もありえないのだ”。
 その原因; 「自己」が苦しみ・恐怖から逃れ、満足・安定を求めて、信念・理想・神(宗教)などからなる
巨大な虚構の構築物「自己」を思考がつくりだし、それにしがみつく。それによって、ますます「真実」が遠ざかり、分裂・闘いが激化し、問題の深化・拡大の悪循環がおきている。
 解決の道筋; まず自己を知ること。自我や「私」が実体ではなく、実は思考によって虚構されたもので
あり、それらは思考の一部にほかならないという思考の全構造を理解し、自我や「私」を終焉させたとき、全く新しい絶対の「真理」がわたしたちのなかに顕現される。それは「愛」であり、「真理」に到達した人間は創造的になり、新しい自己の創造=新しい社会の創造(問題の解決をはかる)を実現する。
* 独断と偏見
・共感点;1)著者は、弁舌の徒・能書きの徒を嫌い、徹底的に行為の人=自己と世界の革命家を目指し
ている。
2)世界認識; 「あなたは世界、世界はあなた」という関係の中に自己を捉え、世界の危機克服は、今・即座の自己変革からという透徹した認識。
3)自我の否定; “何かになろうとする欲望、それを求める努力、競争心 ー この精神の働き全体が自我である”と定義し、“こうした精神の働きは、自己を他者から分離し、自分自身を隔離する”思考の
虚構の建築物としての自我を全面否定する。
 理想・宗教・思想などのイデオロギーは、思考が創作した“幻想”として一切が否定される。ーー “ 間とは、幻想に生きる動物である”との認識は、吉本隆明、岸田秀、栗本慎一郎らと共通するものがあるが詳しくは触れない。
・弱点;1)分かりにくさ; “しっくりこない(腹で理解できない)”部分が残る。
 その原因は、著者の用いる論理構造にある。理解できる部分は通常の論理構造が使 れ ている部分。理解できない部分は超論理=悟りの世界(通常言語で表現できない)を通常言語で語られている。
)危機の深化; 著者が指摘・分析した世界の危機はますます深刻になっている。著者の提唱する自己変革をベースとした世界変革が行われていないという事実は否定できない。
 この事実を前に、二つの見方が可能。一つは、著者の分析と対応の方向が間違っていたからだとする見方。もう一つは、著者の分析と対応の方向は全く正しいが、自己を徹底して認識し、真理に到達できる人間がほとんどいないからだとの見方。
 極楽トンボの見方は、二つ目、少し補足すると、悟りに到達できる人間は多くないという認識を著者はもちつつ、それは敢えて言わずに、世界を変革できるのはいくら少なくても悟りに達た人間しかいないという真実を述べたもの。
・特記点; 著者は、あらゆる信念・理想・宗教を否定しているが、ブッタ(釈迦)の最も忠実な継承者  である。ブッタは、慈悲=愛の実践のみに専念、自分を含め一切の権威を否定した。
 参考文献;「原始仏教」中村元、NHKブックス、1970、「原始仏典を読む」中村元、岩波セミナーブック、1985         
*・独り言
 極楽トンボが求めるのは、“自我”にも何事にもとらわれずに、“全き自由”な人生を生きること。その先に“愛”とか“慈悲心”を持ち出すのは、悟ろうが、悟るまいが野暮なり。

 

2006年04月24日

「イタリア 都市と建築を読む」を読む

 本書は、1978年に出版された「都市のルネサンスーイタリア建築の現在」(中公新書)の復刊をベースにしているが、内容は古くなるどころか、今後共感を持って読む人はどんどん増えてくると思われる。
 前半は、ヴェネツィアとチステルニーノという二つの例で“建築類型学”を駆使して“都市と建築の読み解き”が具体的・実践的に行われている。
 後半は、ボローニャを例に“保存”から“再生”へを柱とする都市計画の推進により、先進都市として復活を果たした歴史都市の生き様を紹介している。
 今日では、日本でも“都市、建築を読む”というコンセプトが定着しているが、その草分けが本書なのだ。
 「イタリア 都市と建築を読む」陣内秀信、講談社アルファ文庫、2001

 “建築類型学”とは何か?著者によると、「イギリスや日本などの多くの国では、主として都市・建築の外観の様式等を中心に評価が行われる”のに対し、イタリアでは「建築は、気候風土などの自然条件や社会・経済条件に見合った合理的な空間の形式を獲得し、類似した構成をとるようになる=建築類型」、また「時代の社会条件の変化によって次の類型へと姿を変えていく」と見る。「このような都市を構成する建築の成立・発展のメカニズムを類型という考え方を通して、動的に解き明かす方法が建築類型学」である。
 建築類型学のコンセプトをさらに噛み砕き、著者は、そこで生きる=仕事をし暮らす、人間の営みそのものとの関わり抜きに建築は語れないとの考えに至る。ヴェネツィア、チステルニーノの都市・建築分析ではそれを縦横に使い、歴史的に人々がいかに暮らしてきたかかつ今暮らしているかを生き生きと描き出す。
 ボローニャの都市再生計画計画の特徴は、「ボローニャ都市行政の最大の関心は、これまで資本による都市改造のメカニズムの中で郊外へ追い出され続けてきた住民の側が逆に歴史的都市部を取り戻すことにある、人間が都市の主役に返り咲くこと、それこそがこの町の保存の最大の動機となっているのである。したがってボローニャの歴史的建物の修復・再生事業では、従来の住み手を追い出し社会的組織の変化をもたらすことになる建物の構造、建築タイプ、用途の変更は原則として認められない。こうすれば再生後の価値の高まった庶民地区へ進出しようと狙うデパート、スーパーマーケット、オフィス、上層階級の豪華な住宅に対して効果的な歯止めをかけ、住民が築いてきた生活文化を持続させることができるというわけだ。」
 この再生計画は見事成功し、ボローニャは活性化し住民にも喜ばれ、この方面での最先端の地位を固めるにいたった。
 * 独断と偏見
  著者は、建築類型学を説明するにあたって、対極として日本・イギリスなどでは都市・建築の外観等 中心の評価 が行われると、日本とイギリスを一まとめにして述べている。
  しかし、同じ外観重視といいながら、イギリスは街並みならびに住宅の調和には一方ならぬ努力を払
 い成果をあげており、この点でも無策の日本は大きく水を開けられている。
  それに加えイタリアでは、建築類型学アプローチにより、気候風土、経済・社会条件の変化を加味し
 て人間の生活の場としての内部空間にも目を向けた建築の分析・実践が行われている。
  日本の街並み・建築を眺めると、調和の欠如・落ち着きの無さに唖然とすることが多い。また住んで  いて暮らしやすいとも言えない。
  日本の都市・建築がどうしてこのようになったのかはどうでもいいが、何とかせいとは思うのだ。こん  なに面白そうで、重要なテーマを放っておくなんて、もったいない・もったいない。
  

2006年04月23日

池袋西口公園古書市

 こんな本買った(2006,4,21)
 「往生要集」中村元、岩波書店、1984
 「生の全体性」J・クリシュナムルティ、平河出版、1986
 「宇宙・地球・生命・脳」立花隆、朝日文庫、2003
 「経済学の実際知識」高橋亀吉、講談社学術文庫、1993
 「失敗の本質」戸部良一ほか、中公文庫、1995
 「イタリア 都市と建築を読む」陣内秀信、講談社アルファ文庫、2001
 「ふらんすデカメロン」サン・ヌーヴェル・ヌーヴェル、筑摩叢書、1985
 「笑う哲学」南伸坊、ちくま文庫、1992
 「本音のコラム」宮迫千鶴、河出書房新社、1992

2006年04月19日

「犬と鬼」を読む

 この本は、日本人以上に日本を知るアレックス・カーによる閉塞状態にある日本の分析である。課題としては、環境破壊=河川、海、山林、産業廃棄物、都市景観、バブル崩壊=土地、株、財政破綻=経済原則無視、などをあげている。この本のユニークな所以は、その根本原因を日本人の本質を“和”にあるのではなく、“序・破・急・残心”を超え“ゆっくり、速め、速く、激突”にまでゆくという国民性分析にある。
 それに加え、そこまで問題を深刻にした要因として、いったん方向が決まるとどんなに状況などが変わろうと、限りなく加速を続け、誰も歯止めをかけられない官僚の独裁制度をあげている。また、そうした状況に異議をはさまない国民を作り出したのが、“言われたことを逆らわずに従順に従う”教育制度にあると指摘する。         「犬と鬼」アレックス・カー、講談社、2002年

 この本の問題指摘部分は類書をおおきく超えるものではない。しかし著者も書いているように裏付けのデータを集めるのに力を注いでいる。その部分は説得力はあるものの、目新しいものでもない。
 この本のインパクトの大きいところは、“逆徳精神説”にある。日本人は日本人の美徳は“和をもって尊しとなす”ところのあると思い込んでいるが、それは“無いものであるがゆえに求める”という国民性認識である。
 この観点に立てば、環境破壊・財政破綻などがここまで進んだことが理解できる。
 著者は、問題分析と原因分析は提示するものの、その対策は外人である自分が提案すべきではないとして筆をおく。
* 独断と偏見
 二十世紀末の日本の問題の分析に特に目新しいものはない。“序・破・急・残心”に止まらず“激突”まで行くという国民性の指摘が鋭い。しかし、著者は解決策を示していないので、どうすればいいのか?
 基本的には政治の問題なので、政治改革が必要だが、鳴り物入りの小泉改革も道路・郵政問題に象徴されるように実質従来路線を変えられない。民主党もメール問題にみられるお粗末。既成政党に改革のリーダーシップは期待できない。
 それでは世界に名だたる官僚に期待か?官製談合・天下り先確保に関心はあっても自分たちここまで大きくした問題の解決に取り組もうという意欲も能力もありそうにない。
 残る期待は国民にかかる。ここまで問題を放置する日本人とは何者なのか。これだけ問題が大きくなっても目に見える行動をとらない日本人とは?ここを掘り下げないことには先には進めない。
 極楽トンボとしては、問題解決は既成政党、官僚のリーダーシップには期待できない、国民が自ら起爆剤とならねば本当の改革は始まらないだろうと考える。しかし、これは“従順”教育に染まった日本人に主体性を期待するという最も困難な選択肢なのだが、これ以外に現実的な選択肢選択肢がないのだろう。時間の余裕があまりないので、極楽トンボの信条に反しても、なにをやるべきかを考えてみようと思わせられた一冊であった。

2006年04月17日

「八十路から眺めれば」を読む

 この本は、老いを論じた本の大部分が、五十代、六十代の“少年少女”が書いたものであることに気ずいた作者が、八十歳の誕生日を間近にした老人の率直な私的レポートとしてまとめたもの。老人のほとんどを悩ます恐怖、1)成人の複雑な性格から、たった一つの特徴(性格)へと切り詰められてしまうという恐怖、2)死の恐怖ではなくて、われとわが身をどうすることもできなくなる恐怖を抱えつつも、“一人一人の生には,ある種の趣向がある。--発見されれば、一つの物語であることが判明するだろう”という生き方を提唱する。さまざまな老人の生き様を伝える中に、ピカソの“老いが気になるのは老いていくときだけだ。--気分はまあ二十歳と変わらないね”という生き様をふくめ、さまざまな生き様を伝える。
 「八十路からの眺め」マルコム・カウリー、創思社、1999年。

*偏見と独断
 若かろうが老いようが、“よく人生を生きる”とは何か。V・E・フランクルによれば、“創造価値、経験価値、体験価値のよりよき追求である”そうだ。老いようがこの三つの価値を追求していれば“よく人生を生きている”ことになるし、若くてもその追求を怠れば“よく人生を生きていない”ことになる。
 一方、極楽トンボとして思うに、作者が本書で紹介しているポール・クローデルの言、「八十歳!目もだめ、耳もだめ、歯もだめ、足もだめ、呼吸もおぼつかない!しかし、とどのつまり、それらのもの無しでも満足して生きていけるというのは驚くべきことである!」という老いを送りたい。そのときには、“三つの価値”を追求してしているかどうかなどという“小ざかしい”ことはどうでもいいのであろ。
*“老い”に関する比較的最近読んだおすすめ本
 「免疫の意味論」青土社、、「生命の意味論」新潮社、多田富雄
 「人間を超えて」中村雄二郎、上野千鶴子、河出文庫
 「老いについて」キケロ、岩波文庫