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2006年06月28日

神田・神保町古書街

 6月27日に買った本
・「実利論」上・下、カウティリヤ、岩波文庫、1984
・「イタリア紀行」上・中・下、ゲーテ、岩波文庫、1942
・「自省録」マルクス・アウレーリウス、岩波文庫、1956
・「無門関」岩波文庫、1994
・「正法眼蔵随聞記」岩波文庫、1929
・「自己創出する生命」中村桂子、哲学書房、1993

2006年06月24日

「風邪の効用」を読む

 本書は1962年に全生社より刊行されたものを、再販文庫化したものである。
 今日でもそうであるが現代医学は、風邪を病気として捉え、その症状に焦点を当て、その症状をなくすこと=回復と考え、それを医療行為の目的としている。
 これに対し、著者は全く異なった見解を述べる。著者によると、風邪の原因は、「偏り疲労、もっと元をいえば体の偏り運動習性というべきもので、その部分の弾力性が欠けてくることにある」。「風邪を引くと体の方々の偏り運動が調整されて、硬張った筋肉が弾力性を回復してくる」。「それで、私は風邪は病気というよりも、風邪自体が治療行為ではなかろうかと考えている」。
 「風邪の効用」野口晴哉、ちくま文庫、2003

 「それぞれその人なりの風邪を引くと、その偏って疲れているところがまず弾力性を回復してきて、風邪を経過した後は弾力のあるピッチリした体になる」。
 「だから風邪というものは治療するのではなくて、経過するものでなくてはならない」。「大概の人は風邪を引くような偏り疲労を潜在させる生活を改めないで、風邪を途中で中断してしまうようなことばかり繰り返しているのだから、いつまでも体が丈夫にならないのは当然である」。
 さらに「風邪を経過する治るということでも、引くことと同じように心理的分子が非常に強く働いているので、それを処理しないと(整体だけで)風邪のとっぱなを治すことは非常に難しくなるのです」。
 「一旦方向づけられたら、意志がどんなに努力してもその空想には勝てない。結局空想が方向づけられた方向に体の動きは行ってしまうということです」。
 「風邪のような場合でも、そういう心理的なものの処置の方法はいろいろあって、難しい問題がたくさんありますが、--- ともかく空想を方向づけるということを憶えて頂きたい」。
 * 独断と偏見
 ・ 著者は、整体で顕著な実績をあげている。
 その最大の理由は、本書にも示されているように、“心身一体”という人間観がもたらす、心身統合・要素還元を否定する全的アプローチであろう。
 「ガンのセルフ・コントロール」を読むでも述べたが、心身二元論・要素還元論にもとづき局部的症状のみに眼を向ける現代医学が、心身一元論にもとづく医学に大きな実績の差をつけられるのは、当然なのである。

2006年06月22日

第二回「フランス“持たざる者”たちのネットワーク」

 第二回は、「持てる物」と「持たざる者」との格差が広がる社会で、フランスでは、失業者・ホームレス・移民労働者たちが、「住宅占拠」や「雇用占拠」を戦略に新しい社会のあり方を提案しており、その具体的な活動の紹介を行うという内容となっている。
 この運動は、フランスのバブル期に地上げ目的の放火によりアパートを焼かれ住むところのなくなった海外からの移住労働者が、1994年にバブル崩壊により空きビルになっていた建物を占拠し住み始めたことからスタートした。
 90年代後半から大量の失業者を巻き込み、「空家占拠」(住むところの確保)、「スーパーマーケット占拠」(食べ物確保)、「雇用占拠」(スーパーマーケット・郵便局など人員削減により長蛇の列が出来ている窓口で失業者が仕事に従事)、「公共交通占拠」(無賃乗車)などを展開している。
 第二回: 講師: 稲葉奈々子(茨城大学教員)、2006年6月13日

 これらの運動は、今日(今)、食べ物がない、眠る場所がない、という切羽詰った状況を解決し、失業したとたんに食い詰めるという問題を打開するために行われている。
 フランスは社会主義政権下にあるが、これらの人たちから見ると、政府や労働組合が語るのは「十年先に良くなる」という話で、何年待たされるのかわからない、自分たちに必要なのは今日食べる食べ物であり、今夜眠るところであるとなり、両者のギャップは大きい。
 そうした中で運動が継続されているのは、なによりも今日の食べ物・眠るところがないという困窮が、失業者だけでなくパートやアルバイトにも及ぶという現実があり、他方ではこうした状況を理解した国民の支持があるからである。
* 独断と偏見:
 ・ 第三の道: 不勉強でフランスの状況は正確に把握しているわけではないので、あくまで推測であるが、現在フランスで何がおこっているのか?
 「市場対国家」の成功・失敗の反省から、社民政権下でも小さな政府への模索、それを背景にソーシャル・セーフティ・ネットの切り下げが行われているのだろう。
 ヨーロッパでは現在大半の国で社民政権下にあり、大枠としては「市場」でもなく「国家」でもなく「第三の道」を目指すことで合意されている。
 今、フランスで問われているのは、「第三の道」の実現とそれが成功か失敗かの成否を明らかにすることなのだろう。
 ・ PARC事務局へ: 上記の要約は、プレゼン後の質疑ならびに有志参加での飲み会でのヤリトリを含めて得た情報を整理したもの。
 ということは、セミナー参加だけでは、情報が不十分だということ。
 特に不足していたのは、この運動のフランスのなかでの位置付け。社民政党、労働運動との関係、第三の道の中での失業者政策などの情報提供が簡単にでもあれば、この運動の位置付けと意義がより良く理解できたと思う。

2006年06月21日

「ブッダ」(手塚治虫)を読む

 本書は、1972年から1973年の足掛け13年にわたり、「希望の友」「少年ワールド」「コミック・トム」に連載された「ブッダ」に若干の手を加え単行本化(12巻)されたものである。
 シャカ族の王子シッタルダが出家をし、悟りをひらいてブッタ(目覚めたもの)となり、仏の道を説く一生を書いている。
 長編の話を面白く続けるため、架空の人物を数多く登場させ、フィクションもふんだんに取り入れている。しかし、それにより、格調をおとすことなく、ブッダの説いた仏道とはなにかを、漫画という視覚的手法の強みを逆に活かしながら、生き生きと描き切っている。
 ブッダという人物とブッタの説いた仏の道の本質を、読む者の心に強く刻みつける、手塚治虫の並々ならぬ力量を示す代表作。
 「ブッタ」1~12巻、手塚治虫、潮ビジュアル文庫、1992

* 独断と偏見
 ・ 極楽トンボ思うに、ブッタの説いた仏の道の要点は三つ。
 第一点: 中道=苦楽の否定: 苦行に専念していても、享楽におぼれていても、真理に到達できない。こだわり・欲をすて無心になる中道の道を行くことによってのみ真理に到達できる。
 第二点: 行為の重視: 仏教で後の宗派間の争点となり、他宗教でも同様に争点となっているのが、行(為)と知(識)と信(仰)のなにを重視すべきか。
 ブッダが説いたのは利他行為最重視の立場。
 第三点: 愛(慈悲): ほとんどの宗教は共通に愛を説いている。キリスト教との比較でブッタの説く愛の特徴を整理する。
 まず、その基となる世界認識と愛の対象であるが、キリスト教は世界は人間のために神が創造したものだとし、したがってあらゆる生物をふくむ自然は人間に奉仕すべきだとし、さらに人間のなかでも異教徒は人間とはみなさないため、愛の対象にはならないとする。
 これに対しブッダは、世界はあらゆる生命・自然が相互に関係を持ち、それぞれ他に役立ちながらなりたっており、したがって愛の対象には人間はもちろんあらゆる生きとし生けるものがふくまれるとする。
 また、バラモン教(ヒンドゥー教)は、愛の対象からカースト(四つの階級)と女性を除外しているが、ブッダはすべてを対象とすべきだと説く。
 つぎに愛であるが、キリスト教もその説くところは、見返りを期待せずに他人のために自己を犠牲にする(利他的)行動である。しかし、究極的には、天国に行けるか否かの見返りにつながっている。
ブッダの愛は、そうした意味では究極的にも見返りをなんら期待しない利他的行動である。一般的にはブッダは愛の見返りとして極楽を約束したと理解されているが、これは後に後継者たちが言い出したことで、ブッタは極楽が存在するかどうかの問いに対しても、一切口を閉ざししている。
・ ブッタの死後、仏教は数多くの宗派に分裂し、それが中国・日本刀などにも伝えられ、さらに多くの宗派を生み出した。
 このため、今日ではブッダが説いた仏の道とは何だったのかが分からなくなっている。手塚治虫の「ブッダ」は、その本質を原始仏典を読む以上に、豊かなイメージ語っている。
 今日に伝わる諸宗派の仏教をブッタがみたら、「これは私の説いた仏の道ではない」というに違いないのだ。

2006年06月17日

第一回「政府とも市場とも違う人々のオルタナティブ 連帯セクターとは」

 第一回はこのコースの狙いとするところの全体図を描くというのがテーマである。
 講師は連帯経済の歴史と概念を簡単に紹介後、市場経済・公共経済・連帯(共生)経済・の特徴と問題点と相互関係について触れ、メキシコ・チバス州での試みの事例紹介を行い、最後に連帯経済を目ざす将来の理念型として修正資本主義か新しい資本主義か、それともそれ以外かの選択肢を紹介し、講義を終える。
第一回: 講師 山本純一(慶応義塾大学環境・情報学部教授)2006年5月25日

* 独断と偏見
 第一回は、その狙いに対する達成度で評価すると、明らかに“失敗”であったことになる。
 第一回の目的を達成するには、次のように大きく流れを三つに整理かつポイントを明確にする必要があると思う。
第一の流れ: 市場対国家の歴史をその時代背景を含め簡潔にまとめる。市場と国家の成功と失敗の
ポイントを整理する。ヨーロッパとアメリカの共通点と相違点を明確にする。
 第一期: 「市場」(みえざる手)の優位: 産業革命による産業資本主義の勃興、小さな政府。
 第二期: 「国家」の登場(ケインズ主義): 大恐慌による失業という国家の失敗、社会主義国ロシア
の誕生を背景に、市場の失敗を予防・補正する国家の登場。
 第三期: 大きな政府(福祉国家)の失敗(財政破綻)を背景に新自由主義の台頭、小さな政府へ--規制緩和、ソーシャル・セーフティ・ネットのミニマム化。
 第四期(現在の転換期): インターネット革命による一つの世界市場の成立、社会主義(ソ連、東欧)
の崩壊、“市場原理主義”の嵐ーー市場の失敗の再顕在化。ーー新しい道の模索。ヨーロッパでの大きなコンセンサス“第三の道”。
第二の流れ: 「市場対国家」に対する別の選択肢「連帯(共生)」の歴史(理念と実践)。
  1)ワーカーズ・コレクティブ: 協同組合運動
  2)地域通貨
  3)フェアー・トレード
  4)----
   など各種運動を大きくパターン分類し紹介。
 第三の流れ: 自由学校の各回に紹介する事例は、第二の流れのどれに該当するのか。

2006年06月14日

神田・神保町

 6月13日に買った本
・ 「提婆達多」中勘助、岩波文庫、1985
・ 「母性社会日本の病理」、河合隼雄、中央公論、1986
・ 「クルーグマン教授の経済入門」ポール・クルーグマン、メディアワークス、1998

2006年06月06日

「二十一世紀の資本主義論」を読む

 本書は、1997年のアジアの金融危機の背後にある基本原理を明らかにする書下ろしの「二十一世紀の資本主義論ーグローバル市場経済の危機」巻頭論文と、「ヴェニスの承認の資本論」のあとがきで、資本主義という逆説説的な社会機構とその根底にある貨幣という逆説をめぐってこれからも語りつづけていくことになるだろうと述べたことを踏まえ、1985年以降書き続けられた文章で構成されている。
 本書には、多くの文章が載せられているが、著者の眼は一貫して“資本主義の本質はなにか”を、“利潤とはなにか”、“貨幣とはなにか”、“純粋資本主義のもとではなにがおきるのか”を過去の経済学の主要学説を批判的に検討しながら、切れ味鋭くユニークな見解を打ち出す。“二十一世紀の資本主義”を考えるにあたって必読の、圧倒的な説得力を持った好著。
 「二十一世紀の資本主義論」岩井克人、筑摩書房、2000

 著者は、人類の歴史とともに始まる経済ならびにアダム・スミス以来の経済学の歴史を振り返りながら、主要経済学説を切り捨て、独自の見解を次の三つの主要領域で提示している。
 1)利潤の源泉: 1776年のアダム・スミス「国富論」以来利潤の源泉を労働価値説におく理論が主流をなしてきた。
 著者は、これは産業資本主義の勃興期にそれを唯一の資本主義とみなした形而上学的誤りだと指摘する。資本主義はノアの箱舟以来の商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業資本主義=情報資本主義の三つの資本主義があり、いずれも利潤の源泉は“差異”にあるとする。商業資本主義は、遠隔地貿易に見られるような複数の価値体系のあいだの差異の媒介に、産業資本主義は、一国経済の中に市場化された都市と市場化されていない農村が共存しているところから生み出される労働生産性と実質賃金率の差異に、情報資本主義は情報の差異そのものを商品化することに利潤の源泉とみなす。
 2)貨幣論と投機論: 貨幣が貨幣として機能するのはなぜか?二つの学説、貨幣商品説と貨幣法制論を紹介し、ただちに双方とも誤りだと断言する。
 金が金貨になり、金貨が紙幣になりという貨幣の歴史のなかで、だんだんとその実体性を失い、貨幣は何らかの実体的な価値に支えられているのではなく,貨幣として使われているから貨幣であるという自己増殖法によって支えられている純粋に形式的な存在であるという。すなわち、人々が貨幣は将来にわたって貨幣として機能していくだろうと考える「予想の無限の連鎖」によって支えられているとする。
 エレクトリック・バンキング、電子マネーの登場は、電子情報そのものが貨幣として機能し、貨幣の形式性が純粋に示される。
 貨幣論から著者はただちに投機論を始める。
 市場における商品の売買活動を貨幣に焦点をあてて眺めると、貨幣をモノと交換に受け取る=貨幣を買うこと、貨幣をモノと交換に手渡す=貨幣を売ることでもある。言いかえれば、貨幣とは貨幣とは他人に売るために他人から買うモノということにある。他人に売るために、他人からモノを買うのは、広義の投機にほかならない。
 この観点に立つと、一般の生産者・消費者といえども貨幣を保有するかぎり、投機にかかわらざるをえないことになる。
 著者は、投機論を、自由主義思想のチャンピオン、ミルトン・フリードマンの学説の紹介から始める。フリードマンは、投機家とは安く買って、高く売る人間のこと、それは、生産者が高いときにモノを売り、消費者が安いときにモノを買うのと本質的にどこも違わないといい、投機家は生産者から買ったモノを消費者に売るという暗黙の前提に立ち、投機は市場に混乱をもたらさず、逆に安定をもたらすと主張する。
 しかし、投機家がお互い同士で売り買いをはじめたらどうなるなるか。市場はまさにケインズの「美人コンテスト」の場に変貌し、そこに成立する価格は実際のモノの過不足から無限級数的に乖離し、究極的にはすべての投資家が予想した価格が市場価格として成立し、価格の乱高下を引き起こすことになると指摘する。
 同じく市場をあつかい、同じく人間の利己性と合理性とを仮定しながら、市場には本来的にはつきまとうという、アダム・スミスと真っ向から対立する理論が提示されたことになる。
 3)資本主義の未来: 著者は、純粋化された資本主義であるインターネット資本主義の下では、不安定性は、過去よりはるかに増幅されたかたちで発現、、金融危機がくり返し起こるだろうという。
 これまでスミスの「見えざる手」が曲がりなりにも働いており、チョボチョボの安定性を保っているようにみえるのは、市場経済を不純にするさまざまな「外部」の存在が、その本来の不安定性の発現を抑えてきたからだとする。
 同時に、金融危機の多発は、それによってグローバル化した市場経済そのものが崩壊することを意味するわけではないという。
 不安定性を救う救い主としてコピーレフトのような運動が何らかの役割を果たす可能性があると指摘する。 
 市場経済の真の危機は、基軸通貨ドルの危機、すなわち、ドルに対する「予想の無限の連鎖」の崩壊によってもたらされる。
 しかし、それの真の解決はグローバル中央銀行の設立以外にありえないが、現状のグローバル市場経済の中では、国民国家の錯綜した利害関係を超越する独立性を保証しうる文化的政治的経済的基盤は何も存在しない、といって筆を置く。
* 独断と偏見
 ・独断: 前から経済関係書を読むとイライラがつのり、腹の立つことが多かった。切り口・スタンス・内容いずれをとっても、これでも経済学派「社会科学」といえるのかという思いである。
 本書は,そうした意味で久しぶりに「スッキリ」した気分で読み終えることができた、快著である。
 利潤の源泉「差異」説、その原理が貫徹する商業資本主義・産業資本主義・情報資本主義という三つの資本主義、「予想の無限の連鎖」という自己循環性の上に成り立ち、それゆえに不可避的に投機と結びつく市場経済、純粋化された資本主義であるインターネット資本主義の増幅された不安定性の行き先、いずれも圧倒的な説得力をもっている。
 ・偏見: 本書で著者は、自分に大きな宿題を出している。すなわち、「増幅する不安定性を抱えたインターネット資本主義を崩壊させない手立てはあるのか?」である。
 極楽トンボの最大の関心もそこにある。
 著者は、「コピーレフト」などの「贈与論」的運動に何らかの役割を期待するかのような一文を遺しているのみでそのほかには何も語っていない。
 「自由主義」が「市場原理主義的」色彩を強める今日の風潮の生み出している最大の問題は、「マネー崇拝」の強まりにより、「公正=社会正義」が見失われつつある点であろう。
 そうした点を踏まえると、今、求められているのは、「市場原理と共生原理の多軸原理で市場主義のネガを消し、質を中心に効率を高める経済のあるべき姿」のヴィジョン構築であろう。

2006年06月01日

「この最後の者にも」を読む

 「ごまとゆり」などで知られる文学者ラスキンが、古典派経済学、功利主義を批判、人道主義的新経済学の創立を目ざして書かれたのが、「この最後の者にも」である。
 本書は雑誌に掲載(1960年)されたが、新聞や雑誌には酷評または冷笑され、一般世論からの総攻撃を受けて四回で掲載打ち切りされてしまったといういわくつきの本である。
 第一論文で、ラスキンは、古典派経済学派の前提条件「人間を貪欲な機械と考える」の批判から始める。雇用者と労働者の関係を例にとれば、古典派的自己利益追求型アプローチでは、両者を一つにまとめることは出来ない。「両者の間のすべての正しい関係と、両者のすべての最善の利益とは、結局---
正義と情愛によるものである」という。
 「この最後の者にも」ラスキン、中央公論・世界の名著41,1971

 第二論文「富の鉱脈」で、ラスキンは、「貨幣」や「物質的財産」の「蓄積」が「富」であるとの考えを否定する。「少し考えると人間自身が富であること---。事実、富の真の鉱脈は、深紅色であることーー岩石のなかではなく、肉体のなかにあること--」といい、“富を生み出す人間を動かすのは、必ずしも貨幣や物質的財産ではなく、道徳的な力である”と主張する。
 第三論文「地上の審判くもの」の要点は、「不正な手段によって得た富の真の結末は死あるのみ--
。」、「労働者の全運命は、結局この正当な報酬という重要問題に依存している---」、「私の経済学の原理は“剣の兵士があるように鋤の兵士があるべきだ”という一句のなかに含まれている。そしてまた“統治と協力とはあらゆることにおいて、生命の法であり、無統一と競争とは死の法である”の--
一文のなかにすべて要約されているのである」。
第四論文「価値に従って」で、ラスキンは、ミル、リカードゥの富・交換価値・有用の定義を否定する。そして、富の定義として「われわれが使用することができる有用なものの所有」であるとする。つぎに「有用な」の意味として、「それがたんに性質上役に立つばかりでなく、有用に用いる人の手中になければならない」とする。「それゆえに富というのは、“勇敢な人による価値あるものの所有ということである”という。
 また価格についても、「世間に存在する需要の四分の三は非現実的なもので、幻想や理想希望や情愛といったものにもとづいている。だから財布の調節は本質的には想像や感情の調節となるのであるそこで価格の性質についての正しい議論は非常に高尚な形而上学的な問題となり、ときには---ただ感情的な方法によってのみ決定することができるのである」と当時としてはユニークな見解をのべる。
 また「交換」、「利益」、「生産」、「資本」についても独自の定義をおこなっている。
 以上が本書の概要であり、古典派に対してなかなか鋭い批判を多く投げかけているが、狙いとする人道主義的新経済学の体系的樹立には至っていない。
* 独断と偏見
 ・ 極楽トンボが経済学と称するものに常常抱いている不満をラスキンはずっと昔に持ち、自分で答えを出そうとしてしていた、その心意気や良し!
 ・ 極楽トンボの既存経済学に対する疑問は、大きくは二つ。
 1)経済学は学問といえるのか?
   切り口は三つ。
  その一: 前提条件としての人間観: 経済学は、心身一体の人間のさまざまな行為を経済活動という断面で切りとるもの。“学問”としての経済学にとってまず重要なのは人間観。しかし、現在の最先端といわれる経済学もふくめ、前提条件として人間観を定義しているものはほとんどないし、暗黙の前提として透けて見えるのは、心身二元論的人間観である。
 その二 : 対象とする経済活動: 基本的に貨幣のやりとりが行われる経済活動を対象としているが、
それだけが経済活動ではない。具体例をあげれば、環境破壊(インフラ損失)未計上・破壊回復費用計上、医療では、医療費計上・病気予防効果(効用)未計上など。把握困難・不可能は学問として言い訳にならない。
 その三: 価値観問題: 学会の多数派は、社会科学としての経済学に価値観を持ち込むべきでないとの立場。クーンの「科学革命の構造」をもちだすまでもなく、自然科学といえどもその時代の価値観と無縁ではありえない。ましてや、人間の学である経済学では、価値観問題をさけられない、いや積極的に価値観論議を透明化しておこなわずに経済学の存立はありえない。
 2)経済学はなにをなすべきか?
・ 一言でなすべきことは、上記の三つの切り口をふまえて、経済学の真の構築をおこなうこと。
・ 簡略にポイントを整理すると、
 イ)ヴィジョン領域: 経済学はあらゆる領域と連携をとりながら、“めざすべき人間像”それを可能とする“目ざすべき社会像”を描き(複数選択肢)、それを可能とする“めざすべき経済社会像”提示し、方向の決定は国民の判断にゆだねる。
 ロ)分析・政策領域: 上記“めざす経済社会”の実現をはかるための全的経済活動の分析とそれに基づく政策提言を的確におこなう。

映画「ダ・ヴィンチ・コード」を観る

 この映画は、ベスト・セラーとなった原作を映画化したものである。上映前の原作者・カトリック教会・ソニー(制作・配給)の三者のやりとりでも話題をよんだ。
 多くの人が話しの筋をしっていると思われるし、たとえ知らない人がいてもここでそれを紹介するのは、マナー違反なので、以下この映画を見て考えたことを記す。
 映画の印象は、「そこそこ面白かったが、原作を読んだ人が観るほどのことはない」である。
 映画「ダ・ヴィンチ・コード」ソニー・ピクチャア制作・配給
* 独断と偏見
 ・ 宗教の本姓: まず考えさせられたのは、宗教とは何か?キリスト教(主としてカトリック教会を念頭に置く)は、キリストが説き・実践したように“愛”の宗教である。これをキリスト教の光の部分とすると、闇の部分はこの映画にも触れられているように(この映画の内容が事実であるかどうかにかかわりなく)、他宗教との宗教戦争と内部での異端狩りにより神の正義の名の下に多くの人々を殺してきた歴史にある。

しかし、これはキリスト教のみにみられた特徴だろうか?ほとんどの宗教は、共通して“愛”を説き、“殺生を禁じ”ている。だが、キリスト教と同じように“神”“正義”の名の下に、多くの人々を殺してきたという血塗られた歴史をもっている。
 中村元はそのような歴史を指摘すると同時に、その例外としてインドの宗教、特にブッダの原始仏教とジャイナ教をあげている。
 とすると、血塗られた歴史は、宗教の本姓がもたらしたものではないようだ。
 ・ 人間の本性: では、“愛”を説く宗教が、“多くの人間を殺す”という矛盾を何故生み出すのか?J・クリシュナムルティは、「それでは宗教的、政治的、あるいは経済的戦争を引き起こすものは何でしょうか?あきらかにそれは民族主義やイデオロギーや、特定の教義の信奉なのです」という。それは「心の安定」を求める人間が、真実かどうかに関わりなく、特定の教義・政治的信条などのイデオロギーを「信念」として執着するという人間の本性が“血塗られた歴史”を生み出したのだと指摘する。
 同時に、それは多くの人間がおちいっている陥穽ではあるが、執着を取り去り、虚心にあるがままの一瞬一瞬を見つめることにより=真実を把握することにより、抜け出すことができる、という。
 J・クリシュナムルティは、人間性が血塗られた歴史を生み出すと同時に、それを避ける道を選ぶことも出来ると主張する。少なくともこれまでの人類の歴史は“血塗られた歴史”が圧倒している。しかし、これからは----?